山東直砥 子孫
山東直砥(教育者)家系・子供
子孫:山東昭子(参議院議員。女優)
■山東直砥(さんとう・なおと)は紀伊出身の教育者・官僚で同郷の陸奥宗光の懐刀と呼ばれた
■山東は紀伊で生まれ、12歳の頃に高野山で仏門に入った後、学問に目覚める。その後、北の交易の玄関口だった函館で役人として勤務。ロシア語を勉強し、物産方として輸入業務にも携わる
■日本で初めて西洋バラを輸入したこともある
■函館に赴任したことを機に長崎に赴き、坂本龍馬と出会う。龍馬が立ち上げた『海援隊』の裏方として、連絡・調整役を担った
■龍馬との交流は5ケ月ほどであったが、山東は龍馬を通じて、後藤象二郎、陸奥宗光らに出会う
■山東は函館の役人を辞した後、東京で北門社新塾を運営、さらに神奈川県知事に就任した陸奥宗光の推薦で、横浜に役人として赴任
■横浜は最重要港湾の一つ。政府や外国との交渉・調整役を担う。神奈川県副知事に
■1875年、役人生活に見切りをつけ、出版にのめり込む。英語の辞書などを刊行
■陸奥宗光が亡くなったときには、葬儀を仕切った
略歴
■山東直砥(さんとう・なおと)
【1840年~1904年】幕末、明治時代の教育者。陸奥宗光の懐刀
子孫:山東昭子(参議院議員。女優)
■山東直砥(さんとう・なおと)は紀伊出身の教育者・官僚で同郷の陸奥宗光の懐刀と呼ばれた
■山東は紀伊で生まれ、12歳の頃に高野山で仏門に入った後、学問に目覚める。その後、北の交易の玄関口だった函館で役人として勤務。ロシア語を勉強し、物産方として輸入業務にも携わる
■日本で初めて西洋バラを輸入したこともある
■函館に赴任したことを機に長崎に赴き、坂本龍馬と出会う。龍馬が立ち上げた『海援隊』の裏方として、連絡・調整役を担った
■龍馬との交流は5ケ月ほどであったが、山東は龍馬を通じて、後藤象二郎、陸奥宗光らに出会う
■山東は函館の役人を辞した後、東京で北門社新塾を運営、さらに神奈川県知事に就任した陸奥宗光の推薦で、横浜に役人として赴任
■横浜は最重要港湾の一つ。政府や外国との交渉・調整役を担う。神奈川県副知事に
■1875年、役人生活に見切りをつけ、出版にのめり込む。英語の辞書などを刊行
■陸奥宗光が亡くなったときには、葬儀を仕切った
略歴
■山東直砥(さんとう・なおと)
【1840年~1904年】幕末、明治時代の教育者。陸奥宗光の懐刀
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