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山極勝三郎 子孫

山極勝三郎 家系・子供
(病理学者)


実父:山本政策(上田藩士)
実母:とも
養父:山極吉哉(医師)

兄:彦太郎
兄:浅野釚次郎
妹:末子

妻:包子(山極吉哉の長女)

長男:一郎(夭折)
三男:山極三郎(動物学者・病理学者)
四男:末男

長女:春子
次女:梅子
三女:花子

孫:山際清一


■1863年、信州の上田藩の貧しい士族であった、上田藩士の山本政策(まさつね)の三男として生まれた

■兄が2人、妹が一人の4人兄弟

■同郷の医師である山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指す

■山極家は、代々上田藩の御殿医をつとめていた医者の家系であるが、初代は足利氏に仕えた、足柄山の山極城主の武将だった

■勝三郎が小学校を卒業したとき、上田には中学校がなかった。そのため彼は、卒業後しばらく小学校に残って、教師の授業を手伝った

■そのうちに上田にも中学校ができたため、入学した

■16歳の春に上京し、私立のドイツ語学校で学び、その後、東京大学医学部予科に入学した


略歴
■山極勝三郎(やまぎわ・かつさぶろう)
【1863年~1930年】日本の病理学者。東京帝国大学医学部教授。勲一等瑞宝章。人工癌研究のパイオニアとして知られる。信濃国上田城下(現在の長野県上田市)に上田藩士の山本政策(まさつね)の三男として生まれた
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三井殊法 子孫

三井殊法 家系・子供・子孫
(三井財閥創始者・三井高利の母)


父:永井氏(伊勢の商家)
夫:三井高俊(松坂で質屋兼酒屋を営む)

子供:高俊と殊法の間に4男4女をもうけた

孫:高平

子孫:広岡浅子(大同生命、日本女子大学創設者)

※8番目の末子・高利は豪商三井家の家祖となる


■殊法は、戦国の世から江戸時代になったばかりの頃、伊勢松坂で質屋と酒・味噌を商う、三井家に嫁いだ

■夫が遊び人であったので、夫に代わって、殊法が商売を切り盛りし繁盛させる

■殊法は当時の主な商売相手が、領主や武家などの富裕層であったのを庶民に目を向けたのが画期的であった

■夫がぱっとしないが妻がしっかりしており、息子が立派な商売人に育った例で、現代では伊藤雅俊(イトーヨーカ堂創業者)がいる。『お客さまあっての羊華堂ですから』『お客さまを第一に考えなさい』『お客さまは来てくださらないものという気持ちで毎日の商いをしなさい』といった母親の教えが、伊藤の商売哲学の土台となった



略歴
■三井殊法(みつい・しゅほう)
【1590年~1676年】江戸時代前期の商人。三井グループの創始者、三井高利の母。天性の商才で家業をさかんにし越後屋商法の基礎を築いた。末子の高利は豪商三井家の家祖となる

多川俊映 家族

多川俊映 家系・子供
(興福寺貫首)



大叔父:樋口貞俊

父:乗俊(じょうしゅん)
母:貞子(さだこ)

妻:平山美代子(鳥取県米子出身)

長男:文彦
次男:王彦(きみひこ)


■生家は代々、法隆寺の用事をする家である。法隆寺の用をつとめる家は古くから樋口、多川、芝川の3家があり、お互いに嫁や養子を取ったり、やったりして親戚だった

■1947年3月6日、奈良市の興福寺境内の子院、興善院で、父・乗俊(じょうしゅん)、母・貞子(さだこ)の三男として誕生。名前は俊文(としふみ)

■母親が42歳の時の出産であった。今でも高齢出産であるが、戦後間もない栄養不足の時代であることを考えると、超高齢出産だったといえる

■お寺の子供の生活は特別と思われがちだが、お勤めをするのは父親だけで、母親や子供たちは普通の家とほとんど変らない暮らしぶりだったという

■家は興福寺の敷地の中にあった。興福寺は明治初年から奈良公園の一部になったので、地元の人の往来もあったという

■子供のころは、取り立てて活発でもなく、内気でもなく、普通の子供だった


※参考文献『日経新聞(私の履歴書)』


■多川俊映(たがわ・しゅんえい)
日本の法相宗の僧侶で、大本山興福寺貫首。法相宗管長。帝塚山大学特別客員教授。1947年3月6日生まれ。奈良県奈良市出身。1969年、立命館大学文学部哲学科心理学専攻卒業
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